読書感想文

時は来た。それだけだ。

具体と抽象

よく会話の中ではポジティブな意味で「具体的に」という表現が使われ、ネガティブな意味で「抽象的だ」という表現が使われる。いやいや、抽象表現っていうのは大事なものなのですよというのが本書だ。

抽象化とは?

細部を切り捨てて特徴を抽出するということで、この本でも例えられているが「似顔絵」のディフォルメはまさにこれを行っている。芸能人のダウンタウン浜田雅功がいるが、上手な似顔絵を描くなら髪型のパーマと大きな唇を特に強調して描くだろう。この本の後半に触れられているが、これはアナロジーという発想法の応用だという。

抽象化する時の考え方

似顔絵を踏まえると、様々な事象を「記号化」していくことも抽象化だといえる。そして記号化されたものの関係性を描いたものが「図解」となる。世の中の具体的な事象を抽象的に記号化し、それぞれの関係性を描いて構造化していく、というのは多くの人がやったことがあるだろう。そして、その行為は中々に難しく、脳をフル活用していることが多い。

その中には物事の本質を見抜く能力ということも必要になる。例えば2023年は生成AI元年と言えるくらいには流行っているが、上手に使うことのできる人間は多くないように思える。生成AIはどのようなことが得意なのか?を記号化し、関係性を描き、自身の仕事に落とし込んでいくことが困難だからこそ、上手に使えないのだろう。

抽象化能力の高い人間ならば、生成AIは「具体的な設定/指示を与えた時に的確なレスポンスを返してくれる道具」というように捉えることができる。そうすれば、日々行われる会議の議事録を書き起こしたり要約させたりだとか、Excelのマクロを作らせたりというアイデアが生まれるだろう。このように、抽象←→具体の往復を高いレベルで行えることも抽象化能力の高い人の特徴だ。

なぜ会話が通じないのか?

日頃働いていると、「この人は会話が通じない」という人に出会うことがある。それは上流にいるのか下流にいるのか、という考え方で理解できる。創造的な仕事(上流)をしている時、人が集まれば良いというわけではない。有象無象が集まったところで時間の無駄だ。一方で、作業的な仕事(下流)をしている場合は人が集まれば集まるほど良い。

まったくもって正反対なのだが、問題なのは「人は成功体験を持ち出す」ということだ。下流の仕事をしている人間は「仕事をする時、人が多ければ成功する」と考えている。だからこそ世の中には無駄な会議が溢れやすい。なにかアイデアを出さないといけない!という時にやたらと人を集めて、さあどうぞ、というような会議を設定するような人間がいるが、まさに典型だ。

苛立ちの理由

会話をしていて、「こいつはイライラする」と感じる感情の一つに、この抽象/具体を捉えるレベル差というものがある。抽象化できるレベルが高い人間が喋る言葉と、それが低い人間では同じ日本語でもまったく意味が違ってくる。

会話しているのにお互いまったく通じてないのだからそれはイライラするだろう。しかも、その原因が抽象化されている事象を理解できていないからだと気づけてない場合は凄まじいストレスになる。

会話が噛み合わずにストレスを感じたら、まずは会話の中にある抽象化された表現をできる限り分解して具体化していけば、どこかで会話が成立するはずだ。

そのような労力を割いてまで会話したくない、というのはその通りなのだが、日本に生きている限りこの労力から逃げることはできないだろう。

 

 

アニメビジネス完全ガイド

アニメ業界に身を投じるにあたり、業界のことをよく理解しなければならないということで色々と目を通してみたが、どうやらこの本が短いながらも業界全体を俯瞰するという意味では適していたようだった。

制作と製作の違い

言葉遊びのような感覚もあるが、役割が明確に異なる。制作は Create であり、製作は Produce になる。つまり制作は映像としてのアニメーションそのものを作る行為で、製作は企画から始まり、資金集めなどにも奔走する最終的な責任者としての役割となる。

そして著作権を持つのも製作側であることから、制作現場にはお金が落ちていかないという論調が今も根強い。アニメオタクをやっていると「アニメーター低賃金問題」であるとか「製作委員会が諸悪の根源」というような話をよく目にした。もう10年以上、個人的に付き合いがあるアニメーター(キャラクターデザインや作画監督まで行う著名な方)からも酷い労働環境の話はよく耳にしたし、作画監督を担当してやっと同年代のサラリーマン同等の給料を貰えるようになった、という話も聞いた。その上で不夜城となるアニメスタジオのような労働環境(世間一般のイメージそのもの)も過去には実在していて、 SHIROBAKO で描かれている世界も「P.A. WORKS さんは良い会社だからあれで酷いって思えているんだよ」というような地獄のような話まで聞くことが出来た。

実際、この低賃金問題は本が書かれた2018年時点では解消されてはいなかったが、少なくとも長時間労働は是正されているように読み取れる。これだけ世間一般のイメージが出来上がれば労働基準局も黙っておらず、労働環境の是正に動いたようで、殆どのアニメスタジオには指摘が入ったことで今では22時には完全にビルが閉まるというようなスタジオも少なくないようだった。

製作委員会は悪なのか

この本のタイトルにも使われている言葉だったが「製作委員会は悪なのか」ということについては、様々なところで「逆に制作現場を守る為の組織」と言われている。確かに製作委員会は製作側(業界内では衣が有るかないか、というような言葉を使う)であるので作品が大ヒットすれば大きなお金が入ってくる。しかしながらそれは大ヒットしたから入ってくるのであって、ヒットしない場合はどうなるのかといえばシンプルな話で赤字となってしまう。この赤字について制作側は責任を負わない。前段の通りで制作はあくまで Create なので、責任を持つ Produce の側ではないからだ。このような製作委員会が悪というような論調に至ったのは様々きっかけがあったようだが、業界内ではそんなことはなく、あくまでイメージでしかない模様である。

今後のアニメ業界

NetflixAmazon Prime など配信プラットフォームが大きな力を持つようになり、制作が製作に回れるようになる大きなチャンスが眠っている。しかしながら日本において制作会社はどちらに転ぶか分からないハイリスクハイリターンの為の費用を捻出するほどの体力がなく、多くの会社が過去のままの形であり続けることは予想される。直近の東洋経済の記事 Netflixが日本での「アニメ製作」を減らす事情 でも触れられており、プロデュースの難しさから製作に上手く回ることができないという意見が出ている。しばらくは現状のような製作委員会方式が多数を占める状態からは変わりそうにない。

 

 

教養としての世界宗教史

ここ何冊か読んだ本で、人間としての死生観がどのように移り変わっていったのか、そして自分はどのような死生観なのか考えることが増えた。根本に存在しているのは宗教であることから、宗教がどのようなものなのかを知らなければならないだろうということで、読み始めた。

モーセ十戒と仏教の五戒

キリスト教イスラム教の元となっているユダヤ教には、神からモーセが伝えられた十戒がある。仏教には五戒が存在する。ルーツは違えど、戒としているものは共通している点が多く、普遍的な内容だ。ユダヤ教キリスト教イスラム教は一神教であることから、偶像崇拝は禁じられている。この点が大きく異なるだろう。そして宗教では法が重要視される(神殿の宗教は土地に依存する為)。しかしながら各宗教で戒律の有無もあり(戒はあるが律は無い場合がある)、すべて同じ重みがあるわけではない。

プロテスタントカトリックの違い

キリスト教徒の中でも、「私はカトリック/プロテスタントだから」というような話題が出てくる。度々、目にしてきたが理解できてはいなかった。こちらによれば、ローマ教会と呼ばれている勢力(つまり昔ながらの勢力)がカトリックであり、後発勢力はプロテスタントである。カトリックとの決定的な違いは聖職者の存在を否定していることで、ローマ教皇など絶対的な権力というものが存在していない。映画:天使と悪魔の舞台となっているバチカン市国カトリック総本山であるから、コンクラーベが行われていた。そしてその間の存在となるのがイギリス国教会である。

危険とされるイスラム

日本人、特に9.11が起こった時にニュースを聞く能力があった人間であれば、イスラム教というのは危険な勢力だと思っていることだろう。私もそうだ。それがなぜかといえば、キリスト教の聖書のような立ち位置にあるコーランの第9章5節に「多神教徒達を見出し次第殺し、捉え、包囲し、あらゆる道で彼らを待ち受けよ」とある。多神教徒とはイスラム教徒、ユダヤ教徒キリスト教徒以外の全てだ。ここだけ読み取れば非常に恐ろしいものであるが、4ヶ月間の休戦期間や庇護を求めた場合(イスラム教を知らない場合)、その限りではない。

そしてイスラム教の「神の前では全員が平等である」という性質上、組織が存在しない(大規模に広まったイランの国民性でもあるが)。また、聖俗一体という性質もあり、指導者が存在しておらず、キリスト教でいえばプロテスタントのような宗派でもある。その上、これらは絶対に守るべきものでもない(個人主義である為に)から、我々が捉えているような恐ろしい宗教では本来無いのである。ではなぜこのような印象を持っているのかと言えば、ジハードという概念だ。

ジハードとは

イブン・タイミーヤというイスラム法学者がいる。彼の思想がイスラム原理主義に大きな影響を与えている。ことの始まりはモンゴル帝国がイランへ攻め入り、領地を造ったことから始まる。モンゴルの中でもイスラム教への改宗が進んでいて、その領主も改宗をしたのだが、タイミーヤはそれを疑い、本質的には異教徒であるから打倒し、ジハードとすべしと唱えた。この後タイミーヤは危険な思想から投獄され、獄中死したが、この思想は現代まで脈々と続き、この思想を取り出した人間はつい最近まで全員が処刑されたりしてきたが、不運な事に現代ではイスラム国(IS)として残ってしまっている。

日蓮の出現

タイミーヤがジハードを唱えたのと時を同じくして、日本では日蓮が出現した。彼は終末論的にモンゴルの襲来を予言した。このような終末論は外れるのが宿命だが、宗教家としては唯一的中させてしまった。知る人ぞ知るがこれが現代に蔓延る創価学会の源流である。日蓮法華経にこそブッダの真の教えが説かれていると信じ、それ以外は邪教という立場を取っている。このような原理主義的な宗教家が世界に偶然、同時期に生まれたのであった。

ブッダは存在したのか?

有名な仏教の開祖として知られるブッダではあるが、ユダヤ教キリスト教イスラム教のように開祖とされる人物が記した書が仏教には存在していない。サンスクリット語で書かれたもの以外は偽経とされているが、唯一ブッダが直接の言葉だとして書かれているものが偽経である。また、ブッダは一人ではなく、複数とされるような表現もある。悟りを開いた仏僧がブッダと呼ばれていたのではないか、というのが現代でも研究されている。つまり、こうなってくると仏教における原理主義的なものは本来存在するはずがなく、日蓮が取った立場というのは誤りだということになる。日蓮、タイミーヤという2人の存在で、世界は大きく変わってしまったものだと感じる。

宗教の未来

現代においては宗教の重要性というものは大きく低下している。勿論、ここまでに触れてきたような宗教における教えというものは人間の普遍的な価値観ではあるが、ここまで広まったのには当時の人間における文化レベルでは「神頼み」する他ない(天災、感染病など)からだ。勿論、今でも多くの人々が何らかの宗教に所属しているものの、彼らの価値観の中では宗教的な考えというのは1000年前と比べたら間違いなく低い割合だ。

当然、死生観というものも変わってくる。仏教では無常観(人はいつか死ぬ)がある。一神教にはこのような世界観は無いが、神の下に平等であるという考えがあれば、死生観というのは近しいものになってくるだろう。しかしながら、だからといって軽く命を捨てられる時代ではなくなった。まず寿命が違う。昔はせいぜいが40年だったが、今はその倍を大きく超える。

そして、「人間における普遍的な価値観」というのも失われつつある。モーゼの十戒や仏教の五戒だ。この戒/律が失われつつあるのは痛ましい。現代に宗教が復権するのであれば、このようなことからだろうと感じた。

 

 

 

行動経済学の使い方

以前より行動経済学というものが気になっており、新書で読みやすいだろうと思いこちらを。

行動経済学とは伝統的な経済学とは違い、人の意思決定はどのようなものに基づくのか、というものを考えるもので、簡単なもので言えば月曜日の燃えるゴミを忘れずに出す為に、毎週アラームを設定するというのもコミットメントを利用した行為となり、行動経済学に基づいたものだ。

この本の中では具体的なケースにも触れて使い方を解説しており、スケジュールを先延ばしにしてしまうような現在バイアスの対策には細かいゴール設定をしたり、前述のコミットメントを利用することが効果的であるとしている。

このように人の意思決定に何かしらを干渉させることで良い方向に向かわせる事ができる。リチャード・セイラーはこれをナッジと呼び、「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」と定義している。

このナッジの決定には様々な手法があり、それについても触れている。例えば仕事の中で誰かに何かを伝える時、より分かりやすく効果的に伝える為にはどうすればいいか?を良く考えるが、それは伝えた先に何か行動を起こして欲しいからだ。それを言語化したのがナッジの手法だと感じた。

話は飛ぶが、低~中程度の賃金水準の人間がそこから脱出し辛いことについても現在バイアスが原因なのでは、という説にも触れられていた。これにはかなり思い当たるところがある。彼らは自身の賃金の水準の低さを理解しているが、現在バイアスによる先延ばし行為で、失業保険だったり一定の貯蓄で楽しめる "今" を過ごしてしまい、結局就職活動をせずに簡単に就ける低賃金の職に戻ってしまう。最近の若い人々(Z世代)がタイパを気にして仕事にフルコミットせずプライベートを楽しむ方に重きをおいている、というのもこれで説明がつくのではないだろうか。

この他、生活や仕事で役立つ細かなテクニックが数多く紹介されていた。いわゆる、「要領の良い人」というのは行動経済学を無意識の内に上手く使っている。逆に、そうではない人は全く使えてないのである。周りの仕事仲間で、「こいつはどうにも要領が悪いんだよな」という人がいたら、この本を渡してみよう。

 

 

晩年に想う

アルバート・アインシュタインが1934~1950年に発表した諸著作をまとめたもので、現在では手に入れるのが難しい。こういう時の図書館ということで借りてきて一通り読んでみた。かなり回りくどい記述や、当時の訳文が読みづらいこともあり、当然ながら全てを理解できているわけでは無い。

科学と宗教

宗教なき科学はびっこであり、科学なき宗教はめくらだ、と示している通りでアインシュタインは科学と宗教を分離したものとは捉えていなかった。科学的に説明がつくものは科学を使うべきで、そうではないもの(関連する因子が多く偶発的としか捉えられないようなもの)は宗教として扱われるのが良いとしている。一方で、人格神は認めていなかった。人格神とはキリスト教の神ヤハウェや、イスラム教の神アッラーが典型とのことだが、あまり理解が出来なかった。これについては別途宗教について学習する必要があると感じる。

社会主義と世界政府

アインシュタイン社会主義を推進していた。完全な意味で成立しているのであれば社会主義は理想的なものというのは一般的にも知られているところだが、そのようなものは成立し得ないというのも同じく知られている。理想主義者であるように感じる。また、独立した国家が力を持つということを認めず、世界政府(国連が近しい存在だろう)を作ることが平和に繋がると信じていた。世界政府というのは当時の米国、英国、ソ連を想定した強国は勿論、世界各国の武力や経済を集合させることで抑止力となるべき存在だ。これを取ってみても明確な理想主義者であることは否定できない。性善説そのものである。

原子力戦と平和、そして民族浄化

まずアインシュタインユダヤ人である。ユダヤ人はナチスによって民族浄化されたというのは知られているところだ。ユダヤ人に対する差別(こんな生易しい表現で良いのだろうか)を受け、アインシュタインは恨み辛みをひたすら書き残している。その中で研究し、生まれた原子力は当時の米国大統領ルーズベルトに署名を迫り、兵器化した。勿論ナチスを滅ぼす為だった。そのはずの兵器がまさか日本に投下されるとはアインシュタインは思っても見なかっただろうが、原爆投下後に彼は「私は悪くない」の一点張りとなってしまった。兵器を生み出した科学者に非はなく、使い道を誤った政府こそが悪である、つまりここから社会主義や世界政府というような思想に傾倒していくわけだが、元々はナチスに対する多大な恨みから生まれたものだ。アインシュタインアルフレッド・ノーベルにも触れ(ダイナマイトを生み出した)、人を大量に殺す一端を担ったからこその罪滅ぼしとしての平和的活動をしていた。

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読み進めていき、アインシュタインがこうまで利己的な考えの人間だとは思ってもいなかったが、明らかに1945年以前と以降では内容が異なる。特に原爆投下年の1945年の著作については相当に動揺しており、良心の呵責というべきか、どうやって折り合いをつけるべきか迷いに迷っているのが読み取れた。人類の大半が滅んでも積み上げた知識が全て失われることはないというような表現がある一方で、その数年後の著作では人類が滅ぶということに対して否定的だからこそ社会主義を唱えているところもある。

この本では触れられていなかったが、日本人科学者や広島の平和活動家と面会した際には涙ながらに謝罪をしていたとも言われている。アメリカ人記者が広島について制作したルポタージュを大量に購入して配っていたということからも、やはり1945年というのが彼にとっての大きな分岐点だったのだろう。

しかしどうにも気になるのはインターネット上の記事では「アインシュタインは原爆製造と関連性は非常に薄い」というような記述だった。もしかしたらそうなのかもしれないが、本人はそのように思っていないだろう。その後の行動を見れば明らかなはずだ。

 

 

救いとは何か

生命学者の森岡正博氏と宗教学者山折哲雄氏による対談本。宗教否定派と肯定派による話ではあるのだが、森岡氏は「自分は宗教に入門出来なかった敗北者」として語っているように根底的な否定ではなく、だからこそ非宗教的な立場で「救い」について対談している。

なぜ人を殺してはいけないのか

これについて近代からは「生命は大切にすべきだから」という論調であるがこれは欺瞞に満ちているのではないか、というスタートに立っている。いま、三種還元の方法が用いられており、社会学・心理学・精神医学の方法で一応は加害者の犯罪理由を洗い出すのだが根本的な解決にはまったくなっていない。かつては仏や神が殺すなと言っているからというような回答ができたが、宗教観が希薄な現代でこの問への回答は非常に難しく、論理=生命学の立場で答えを出すというのが対談のゴールである。

失われた無常観による比較地獄

現代では他人と比較することが容易で、 SNS 疲れというものが一つ例に取れるものだと思う。なぜ比較をしてしまうのかといえば近代ヨーロッパからやってきた「個」によるところが大きく、それは一神論に根ざすものであるから日本では消化しきることができなかった。日本はアニミズムが深層にあり、「一人」は理解できても「個」を理解しきるということが難しい。現代では宗教観というものが薄れているから、つまりは無常観が失われることで「個」を消化できず、比較地獄に陥ってしまうのだろう。無常観とは、「地上に永遠なるものは何一つ無い」「形あるものは壊れる」「人は生きて死ぬ」の三原則からなるものだ。

老いと病による死生観の変貌

人生50年時代から80年時代になり、かつては無常観による死生観があったにも関わらず"老いと病"というものがやってきたことと、「生命は大事にしよう」という論調が重なったことで先程の宗教観が薄れるスピードが加速してしまった。アンチエイジングは最たるものであり、死生観への干渉が甚だしい。ただ一方で、現代医学が最終的に目指している不老不死という立場についてはこの対談でも触れられており、生命学的な視点からいえばどちらも正しくあり、結論がでなかった。

理屈で語る「生命の尊さ」

自分を含め生まれたことについては何の根拠もなく、それは宇宙からは必然性があって生まれたものであり、つまり生まれた時点で救われている。だから生命は尊いという話が最終的に導き出されていた。まだこれは途中でこれからもっと突き詰めていく必要があるということであった。

なぜ人を殺してはいけないのか?という問に対して、宗教観を用いずに語るとするならば、このようなことになる。一方でこれは畜産業や漁業など、他生命を奪って営む人間に罪がないのかという事についてのカウンターともなってしまう。

この本を読み進めて様々な思考を巡らせたが、私として「なぜ殺してはいけないのか」という問に対しての明確な答えはでず、結局は私も近代ヨーロッパの思想に影響された現代人ということを突きつけられてしまった。

 

 

働き方

2022年に亡くなられた、京セラとKDDIの創設者 稲盛和夫氏の著書で、過去に某社長から勧められて結局読めておらずじまいだったので、今更だが手に取って見た。

1冊通して書かれているのは、「エッセンシャル思考」の際にも触れたイーロン・マスクTwitter に対して行っていることと同じことだ。

必死に、汗水を垂らし、一生懸命働くべし。
この本は、この1行を様々な例を交えて一冊の本にしている。かなりスピリチュアルな話もあり、時には時代錯誤が凄まじくて笑ってしまうこともあるが、同じように必死に働いたことがある人には共感が持てると思う。何かに対して必死に取り組んでいる時に見えることは理屈で語れない事が多い。幾つか触れていきたい。

会社を辞めるには、何か大義名分のような確かな理由がなければダメだ

稲盛氏が最初に入社した会社で辞めるか辞めまいか悩んでいた時にこの結論にたどり着き、だからこそ「ど真剣に」仕事へ打ち込み、その後は悩みなど消えていたということだ。会社を辞める時というのは何かしら不満がある。だが不満だけで辞めた時、次のステップで成功する確率は非常に低い。これは理屈ではない。必死に取り組み、それでも尚、辞めたい時は自然に分かる。その時を待つべきだ。

長期的計画は持たない

1日1日、必死に過ごすことが大事で、長期的な目標はウソになりやすい。とにかく明日に向かって1日1日大事に過ごすことが出来れば結果がついてくる、というものだ。勿論公的工事などでは大事なことだが、まずは目先の事に真剣に取り組むべきで、長期目標を立てても従業員はきっと「どうせ変わるだろう」と感じてしまったり、長期的な遠大な目標に向かうことに疲弊してしまうからだ。

目標は自分の能力以上のものを設定する

以前、自分の上司にも言われたことがある。同じ言葉ではないが、「常に自分が出来る生活よりも少し良い生活をしろ」ということだった。生活水準を上げる=お金がかかる=稼がないといけないということで、水準を上げてしまえば退路を断たれるのと同じことなので必死に働くことになるからだ。

楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する

これは Google など外資系企業でよく言われている

Think Big ,Start Small ,Scale Fast

この言葉と意味合いは同じだ。言葉は変わっているが、稲盛氏も同様の考えなのだろう。

 

また、必死に働くことで神のお告げというか、そのような神がかり的なことが起こることがある。これは誰もが一度は経験したことがあるだろう。仏教的な考え方で(稲盛氏は仏教に傾倒している)、「お天道様が見ている」的な発想だ。それについても幾つかあり、この本では触れられている。私も体験したことがある。なぜか起こるものだ。

これから社会人になる人々は、エッセンシャル思考ではなく、まずこちらを読んでほしいものだ。