読書感想文

時は来た。それだけだ。

教養としての世界宗教史

ここ何冊か読んだ本で、人間としての死生観がどのように移り変わっていったのか、そして自分はどのような死生観なのか考えることが増えた。根本に存在しているのは宗教であることから、宗教がどのようなものなのかを知らなければならないだろうということで、読み始めた。

モーセ十戒と仏教の五戒

キリスト教イスラム教の元となっているユダヤ教には、神からモーセが伝えられた十戒がある。仏教には五戒が存在する。ルーツは違えど、戒としているものは共通している点が多く、普遍的な内容だ。ユダヤ教キリスト教イスラム教は一神教であることから、偶像崇拝は禁じられている。この点が大きく異なるだろう。そして宗教では法が重要視される(神殿の宗教は土地に依存する為)。しかしながら各宗教で戒律の有無もあり(戒はあるが律は無い場合がある)、すべて同じ重みがあるわけではない。

プロテスタントカトリックの違い

キリスト教徒の中でも、「私はカトリック/プロテスタントだから」というような話題が出てくる。度々、目にしてきたが理解できてはいなかった。こちらによれば、ローマ教会と呼ばれている勢力(つまり昔ながらの勢力)がカトリックであり、後発勢力はプロテスタントである。カトリックとの決定的な違いは聖職者の存在を否定していることで、ローマ教皇など絶対的な権力というものが存在していない。映画:天使と悪魔の舞台となっているバチカン市国カトリック総本山であるから、コンクラーベが行われていた。そしてその間の存在となるのがイギリス国教会である。

危険とされるイスラム

日本人、特に9.11が起こった時にニュースを聞く能力があった人間であれば、イスラム教というのは危険な勢力だと思っていることだろう。私もそうだ。それがなぜかといえば、キリスト教の聖書のような立ち位置にあるコーランの第9章5節に「多神教徒達を見出し次第殺し、捉え、包囲し、あらゆる道で彼らを待ち受けよ」とある。多神教徒とはイスラム教徒、ユダヤ教徒キリスト教徒以外の全てだ。ここだけ読み取れば非常に恐ろしいものであるが、4ヶ月間の休戦期間や庇護を求めた場合(イスラム教を知らない場合)、その限りではない。

そしてイスラム教の「神の前では全員が平等である」という性質上、組織が存在しない(大規模に広まったイランの国民性でもあるが)。また、聖俗一体という性質もあり、指導者が存在しておらず、キリスト教でいえばプロテスタントのような宗派でもある。その上、これらは絶対に守るべきものでもない(個人主義である為に)から、我々が捉えているような恐ろしい宗教では本来無いのである。ではなぜこのような印象を持っているのかと言えば、ジハードという概念だ。

ジハードとは

イブン・タイミーヤというイスラム法学者がいる。彼の思想がイスラム原理主義に大きな影響を与えている。ことの始まりはモンゴル帝国がイランへ攻め入り、領地を造ったことから始まる。モンゴルの中でもイスラム教への改宗が進んでいて、その領主も改宗をしたのだが、タイミーヤはそれを疑い、本質的には異教徒であるから打倒し、ジハードとすべしと唱えた。この後タイミーヤは危険な思想から投獄され、獄中死したが、この思想は現代まで脈々と続き、この思想を取り出した人間はつい最近まで全員が処刑されたりしてきたが、不運な事に現代ではイスラム国(IS)として残ってしまっている。

日蓮の出現

タイミーヤがジハードを唱えたのと時を同じくして、日本では日蓮が出現した。彼は終末論的にモンゴルの襲来を予言した。このような終末論は外れるのが宿命だが、宗教家としては唯一的中させてしまった。知る人ぞ知るがこれが現代に蔓延る創価学会の源流である。日蓮法華経にこそブッダの真の教えが説かれていると信じ、それ以外は邪教という立場を取っている。このような原理主義的な宗教家が世界に偶然、同時期に生まれたのであった。

ブッダは存在したのか?

有名な仏教の開祖として知られるブッダではあるが、ユダヤ教キリスト教イスラム教のように開祖とされる人物が記した書が仏教には存在していない。サンスクリット語で書かれたもの以外は偽経とされているが、唯一ブッダが直接の言葉だとして書かれているものが偽経である。また、ブッダは一人ではなく、複数とされるような表現もある。悟りを開いた仏僧がブッダと呼ばれていたのではないか、というのが現代でも研究されている。つまり、こうなってくると仏教における原理主義的なものは本来存在するはずがなく、日蓮が取った立場というのは誤りだということになる。日蓮、タイミーヤという2人の存在で、世界は大きく変わってしまったものだと感じる。

宗教の未来

現代においては宗教の重要性というものは大きく低下している。勿論、ここまでに触れてきたような宗教における教えというものは人間の普遍的な価値観ではあるが、ここまで広まったのには当時の人間における文化レベルでは「神頼み」する他ない(天災、感染病など)からだ。勿論、今でも多くの人々が何らかの宗教に所属しているものの、彼らの価値観の中では宗教的な考えというのは1000年前と比べたら間違いなく低い割合だ。

当然、死生観というものも変わってくる。仏教では無常観(人はいつか死ぬ)がある。一神教にはこのような世界観は無いが、神の下に平等であるという考えがあれば、死生観というのは近しいものになってくるだろう。しかしながら、だからといって軽く命を捨てられる時代ではなくなった。まず寿命が違う。昔はせいぜいが40年だったが、今はその倍を大きく超える。

そして、「人間における普遍的な価値観」というのも失われつつある。モーゼの十戒や仏教の五戒だ。この戒/律が失われつつあるのは痛ましい。現代に宗教が復権するのであれば、このようなことからだろうと感じた。