読書感想文

時は来た。それだけだ。

救いとは何か

生命学者の森岡正博氏と宗教学者山折哲雄氏による対談本。宗教否定派と肯定派による話ではあるのだが、森岡氏は「自分は宗教に入門出来なかった敗北者」として語っているように根底的な否定ではなく、だからこそ非宗教的な立場で「救い」について対談している。

なぜ人を殺してはいけないのか

これについて近代からは「生命は大切にすべきだから」という論調であるがこれは欺瞞に満ちているのではないか、というスタートに立っている。いま、三種還元の方法が用いられており、社会学・心理学・精神医学の方法で一応は加害者の犯罪理由を洗い出すのだが根本的な解決にはまったくなっていない。かつては仏や神が殺すなと言っているからというような回答ができたが、宗教観が希薄な現代でこの問への回答は非常に難しく、論理=生命学の立場で答えを出すというのが対談のゴールである。

失われた無常観による比較地獄

現代では他人と比較することが容易で、 SNS 疲れというものが一つ例に取れるものだと思う。なぜ比較をしてしまうのかといえば近代ヨーロッパからやってきた「個」によるところが大きく、それは一神論に根ざすものであるから日本では消化しきることができなかった。日本はアニミズムが深層にあり、「一人」は理解できても「個」を理解しきるということが難しい。現代では宗教観というものが薄れているから、つまりは無常観が失われることで「個」を消化できず、比較地獄に陥ってしまうのだろう。無常観とは、「地上に永遠なるものは何一つ無い」「形あるものは壊れる」「人は生きて死ぬ」の三原則からなるものだ。

老いと病による死生観の変貌

人生50年時代から80年時代になり、かつては無常観による死生観があったにも関わらず"老いと病"というものがやってきたことと、「生命は大事にしよう」という論調が重なったことで先程の宗教観が薄れるスピードが加速してしまった。アンチエイジングは最たるものであり、死生観への干渉が甚だしい。ただ一方で、現代医学が最終的に目指している不老不死という立場についてはこの対談でも触れられており、生命学的な視点からいえばどちらも正しくあり、結論がでなかった。

理屈で語る「生命の尊さ」

自分を含め生まれたことについては何の根拠もなく、それは宇宙からは必然性があって生まれたものであり、つまり生まれた時点で救われている。だから生命は尊いという話が最終的に導き出されていた。まだこれは途中でこれからもっと突き詰めていく必要があるということであった。

なぜ人を殺してはいけないのか?という問に対して、宗教観を用いずに語るとするならば、このようなことになる。一方でこれは畜産業や漁業など、他生命を奪って営む人間に罪がないのかという事についてのカウンターともなってしまう。

この本を読み進めて様々な思考を巡らせたが、私として「なぜ殺してはいけないのか」という問に対しての明確な答えはでず、結局は私も近代ヨーロッパの思想に影響された現代人ということを突きつけられてしまった。